このブログの趣旨
このブログは…

自分探しに、いい加減疲れました。

普遍的な自分なんて、本当に存在するの?
と、気分が重くなってしまってる方に、ふんわりしていただくための内容となっております。
自分探しはもう古い?
かつて「自分探し」という言葉は、多くの人の心を捉えました。「本当の自分」を見つけ出せば人生が変わる、そんな期待を抱いていたんです。
でも、今ではその考え方も、古くなりつつあります。大切なのは「自分を見つける」ことではなく「自分が決める」こと。自分を探し回るのではなく、自分が何をしたいのか、どう在りたいのかを自ら決断することです。
1.自分探しという依存

ふと立ち止まって振り返ると、『自分探し』という行為そのものが、どこか依存的であったのかもしれません。
『何者かになる』ことを目標とし、その達成によって満足が得られるという思い込みの中で、もがき続けていただけなのではないでしょうか。
本当に大切なのは、『自分が何者であるか』ではなく、『自分がどう在りたいか』に目を向けることなのかもしれません。

自分を見つけることで、すべての道が開かれる。そんな概念こそが、幻想だったのかもしれない。
2.自分探しという迷路

自分探しは、自分の本質を追求し、本当にやりたいことや居場所を見つけるためのプロセスとして長い間重要視されてきました。
でも、この行為はまるで迷路のようなものです。つまり、『自分』とは、他人の評価や社会的な役割といった、移ろいやすい要素に影響されがちな存在であり、それを探し求めようとするほど、迷いが生じるのは避けられないと言えるのです。

「自分」を探してると、つい他人と比べたり期待に振り回されて、自由に決める力がどんどんなくなって、結局「自分探し」から遠ざかっちゃうことが多いんだ。
3.自分は自分で決める

「自分探し」が古いとするならば、何がこれからの時代の生き方として適しているのでしょうか?答えは一つ「自分決め」。つまり、「自分は自分が決める」というシンプルな哲学です。
他人の成功例や「こうあるべき」という常識に振り回されるのではなく、「自分はこう在りたい」という意志を持つこと。
自分の選択を肯定し、たとえ結果が思い通りでなくても、その選択を自分の成長の一部として受け入れることでもあります。
これらの行動を通じて、自分にとっての「幸せ」や「充実感」の基準を自分で作り上げることが可能になります。

さぁ、ワクワクしてきた?でもこのブログの肝は、この先にあるんだ。
4.究極は「何者にもならない」

最後に、「何者にもならない」ということの素晴らしさについて、触れてみたいと思います。
「何者にもならない」。それは一見すると無責任や怠慢のように映るかもしれません。でも、実際には「何者かになろうとする」ことから卒業し、自分自身の生き方を選び取ることを意味します。
他人の評価や価値観、社会的な役割や肩書きにとらわれることなく歩む決意なんです。
「自分が存在してるだけで価値がある」ということを、僕らはついつい忘れがちですが、本当はそれだけで十分です。
肩書きや社会的な地位がなくても、人はそのままの自分で尊重されるべき存在で、その状態こそが本来の姿なんです。
そして、それが人生の究極の豊かさにつながります。「何者にもならない」というのは、全部を手放すということではなく、「自分の中にある本質的な部分を大事にする生き方」ということに他なりません。

普段のちょっとした喜びとか感謝の気持ちを、ちゃんと見つめ直そう。名誉とか成果にばっかり目を向けるんじゃなくて、心が穏やかになること、満たされることを目指していくんだ。
今回のポイント
選択肢が広がり、情報があふれる現代だからこそ、自分の軸をしっかり持ち、主体的に行動する力が求められます。
「自分は自分が決める」。その一言こそが、幸せな人生への扉を開く鍵となるでしょう。
自分探しに、いい加減疲れた。普遍的な自分なんて本当にあるのか。
そんな方の心が、このブログを読んでふんわりしていただけたら幸いです。

コメント